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小野裕三の公式ブログです。

詠まれたことも読まれたこともない膨大な俳句に向き合う不安 ~人工知能がもたらす「俳句の死」について~ (『豈』59号に掲載)

俳句の質的な「死」と量的な「死」

 明治の時代において子規は、俳句形式に遠からず終わりが来ると考えていた。

 数学を修めたる今時の学者は云ふ。日本の和歌・俳句の如きは、一首の字音僅に二、三十に過ぎざれば、之を錯列法に由て算するも、その数に限りあるを知るべきなり。語を換へて之をいはば、和歌 (重に短歌をいふ) ・俳句は早晩その限りに達して、最早この上に一首の新しきものだに作り得べからざるに至るべしと。(正岡子規『獺祭書屋俳話』)

 子規の論は明確だ。物理的に、十七文字(あるいは定型外の文字数を多少含めても)における文字の順列組合せの可能性がすべて書き尽くされた時、もはや新しい俳句作品を生み出すことは不可能になり、俳句という形式は終焉する。

 俳句の死――それは実は、多くの俳人たちによって繰り返し議論されてきたことかも知れない。それは悲観的で絶望的な議論であるはずだが、この議論がかくも俳人たちに反復されてきたのは、俳人たちが「俳句の死」という観念自体について夢想することをどこかで愛してきたのだ、というふうにも思える。少なくとも、その観念には俳人たちをインスパイアする何かがあったのだろう。実のところ、あらゆるジャンル(特に芸術)でそのジャンルの「死」はしばしば語られてきたし、要は俳句もその例外ではない。

 だが、子規が予見した「死」は、そのように繰り返されてきた「死」とは異質であることに着目したい。実は多くの論者において、そのジャンルの「死」とはそのジャンルが活力や美や価値を失うことを意味してきた。例えばあるジャンルが愛好者も多くビジネス的にも活況だとしても、それに芸術的な価値が乏しければ、そのジャンルに既に「死」は訪れているとも見なせる。そして、多くの俳人たちが口にする「死」や「滅び」もまさにこのことであった。

 だが一方で子規の所論においては、美的な活力や価値の消滅のことなど前記に引用した文章においては一言も触れられていない。それは、単にもはや新しい俳句作品が生まれえないという、物理的・量的な意味での俳句の「死」のことを指していた。

 

人工知能が計測する「俳句の死」

 もっとも、子規が言う俳句の「死」は、彼の予見のように明治の時代のうちに来ることはなかったし、平成の今現在も来ていない。子規が予測した意味での俳句の「死」がこれまで訪れなかった要因はひとえに、人間(人類)が俳句を生産する速度が遅かったことにある。

 しかし、実はその状況も急速に変わりつつあるのかも知れない。背景にあるのは、人工知能などの出現だ。例えば近年の技術の進歩によって、人工知能がチェスや将棋や碁でも人間を打ち負かすようになった。作曲や絵画などの芸術的な分野でも、人工知能の利用が期待されている。同様に、自己学習によって発達した人工知能に対して俳人たちが作品の質において叶わないという日が来れば、それもまた「俳句の死」とも思える。

 だがしかし「俳句の死」は、もっと単純なものとして訪れるのかも知れない。その場合実は、それを実行するものは人工知能と呼ばれうるほど高度なものでなくても、既に世の中にいくつもあるような俳句自動生成プログラムで充分だ。このようなものが継続的に俳句を吐き出し、どこか公開の場所にそれを記録するようになれば、そしてそれがとてつもなく高速で行われるようになれば、たちまちのうちに俳句は(まさしく子規が言っている意味で)滅びる。それはきわめて物理的・量的な意味での死だ。そしてそこでは、何年何月何日何時何分にたった一句の「新しきものだに作り得べからざる」状態になり、つまり俳句は「死ぬ」という予告すら可能になるだろう。

 

人間が関知しない膨大な俳句を前にして

 かくして、そのような高速の自動生成マシンによって、子規が予言した意味で俳句が死ぬのだとしよう。しかし、そこには奇妙な違和感も残る。マシンは大量に句群を吐き出し、その文字データはおそらく公開されたネットワーク上のどこかに溜まっていくのだろう。だが、それがあまりにも高速かつ膨大であるがゆえに、その作品の過半は、人間の眼にほとんど触れることも鑑賞されることもないまま、ただ蓄積されていくことになるだろう。つまりそれらの俳句は、人間によって「詠まれた」ものでもないし、さらにそのほとんどは人間によって「読まれた」こともない。にもかかわらず、ある人が自分で俳句を作ってそれをネットワーク上で検索してみると、「既に(機械によって)作られた作品」として提示されてしまう。しかも、一句の例外もなく。その状況はどこか悪夢めいてもいる。

 ちなみに、J.L.ボルヘスに「バベルの図書館」という掌編があって、そこではあらゆる文字の組み合わせから作られたあらゆる文章を集めた書物が収蔵されているという図書館が描かれる。まさにそのようなデータベースが少なくとも俳句の世界においては遠からず出現しうる。すべての俳句はもはや作られてしまった(ただしその過半は人間の手によってではなく機械によって)という時代が、まもなく来る。したがって、このようなボルヘス的な悪夢を経験する、もっとも最初の文芸形式が俳句になるのだろう。私たちの世代は、新しい俳句を作り得た最後の世代となり、俳句の「死」の後を生きる最初の世代になる。

 そして考えてみれば、これまで多くの人がそのジャンルの「死」を語ってきたが、その「死」が訪れた後のことを具体的に論じた人はいなかったように思う。そして実は「死」の後の時代にも、いくつかの可能性がありうる。例えば、機械が作った膨大な言葉の組み合わせの中から、優れた組み合わせだけを「選」して提示するのが二十一世紀的な俳人像になるのかも知れない。あるいは、俳諧の精神は、言葉とはまったく違う表現形式を選択して二十一世紀を生き延びていくのかも知れない。

 いずれにせよ、私たちが知っている近代俳句は、俳句の「死」を迎えることで、その姿を大きく変えざるをえないだろう。そして興味深い符合だと思うのだけれど、子規こそはまさに俳句を量の側面から捉え、それを基盤に俳句を革新した俳人であった。「俳句分類」の仕事が典型的なのだが、子規は最初から、俳句という文芸を量的なデータベースとして捉えていたし、そして彼の予言どおり、俳句という文芸は量的なデータベースの膨張によって死ぬことになる。

 これは近代俳句の始まりと終わりに関する、なんとも奇妙な物語なのだ。

2016 年7~9月の句集 『古志青年部作品集』『白鳥句集』『やわらかな世界の肉』『石鏃抄』『思ってます』『文様』

『古志青年部作品集2016』(古志社/2016年7月刊)

夏料理てふせせらぎのやうなもの  イーブン美奈子
正月凧ひつぱるたびに揚がりけり  岡崎陽市
初蝶に鉄壁の天ありにけり  金澤諒和
白シャツの腕まっすぐに飛車香車  高角みつこ
凍つる夜をものともせずに神楽歌  丹野麻衣子
夏蝶と一本の道ゆづりあふ  辻奈央子
烏の巣烏がとんと収まりぬ  西村麒麟
炎天やひろき裏もつ東大寺  渡辺竜樹

 このアンソロジーは定期的に刊行されているようで、毎回面白く読ませてもらっている。俳句的な流れから言うと、きわめて正統的な作品群と言うことができるだろう。もちろん、何をもって正統とするのかは微妙な問題で、伝統に根ざしているから正統、とするのも短絡的だし、ある種のルールを遵守しているから正統、というわけでもない。それに、彼らの作品は正統的でありながらもとても瑞々しいものであると思うし、何かを踏襲することで縛られているような印象もない。
 彼らが正統的であると感じられる理由は、彼らが日本語の「筋目」のようなものを知悉しているからだと思う。それは、日本語の中に内在する(もちろん日本語だけが特別なはずもなくて他の言語にもあるのだろうけれど)、はっきりとは見えないが、まさに言葉にとっての要となるような、「筋目」。鍼治療とか、たぶんそんなものに似ていて、その要になる場所はわかる人だけわかる、という感じで、それはまさに暗黙の秘技のようだ。そして、季語というものはおそらく、そのような筋目を探るためのビーコンのような役割を果たすのだろう。このビーコンを使って、彼らは日本語にとっての要となる筋目を自在に歩き回る。正統的とも見えて、彼らの言葉がきわめて伸びやかなのは、そのようなことが理由なのだと思う。

 

松下カロ『白鳥句集』(深夜叢書社/2016年7月刊)

やがて滅ぶ 鳩 人 きりん 大白鳥
白鳥の姿も見えず身體圖
作法通りに白鳥は喉を突き
音のない雨コンビニへ白鳥へ
生き延びてけふ死ぬ雛へ銀の雨

 なんとなく心のどこかに引っかかるような存在感を持つ句集で、これはきわめて個人的な感覚なのだと思うが、なぜだか白鳥とコンビニという句が気になって、そうするとそもそも白鳥とコンビニの関係ってなんだっけ、と考えたりした。白鳥とコンビニの、その不思議な関係について。実はこの二つ、なぜだが似ている。夜の町で、あるいは湖で、どちらも白くてキラキラと輝くように目立つ存在なのだ。周りの環境と違和感があるほど、どこかしら浮いたような存在で、ちょっとけばけばしいとも言え、であるがゆえに、何やら無性に悲しくもある。そしてこのことは、なぜだかこの句集全体を貫く原理のようにも感じる。

 

岡野泰輔『やわらかな世界の肉』(ふらんす堂/2016年7月刊)

天井に翳のあかるき鳥の戀
シュルレアリスム展みなあたたかし手のしごと
踊りまづ回転である夜は特に
霧が出てゐるすべての鉄は喰はれつつ
内装がしばらく見えて昼の火事
滝の上に探偵が来て落ちにけり
家々よ網戸の底のテレビかな
背の高くとてもきれいな子が落第
イタリア名つけた金魚のすぐ死んで
電車から見えるナイターらしき空
盆棚の写真を褒める近所の人
セーターの脱いだかたちがすでに負け
逃げればいいのだ椿も棒も夜のもの

 俳句的な常識から考えれば奇妙なタイトルの句集だが、句集全体が俳句という文芸の真ん中にある引力のようなものから離れよう離れようとしている気配が見てとれる。その種の実験的試みは個人的には嫌いではないし、そしてこの句集はその意図をかなり達成できていると思う。この句集にはパロディやユーモアの感覚があり(探偵の句などは典型的だろうが)、その一方でどこか気味の悪いような感触も持っている。彼の句の多くは、このふたつの感覚・感触の境界のような場所に立つ。そのふたつの交錯は、彼の句の特徴というよりは、現在の私たちの現代文化自体が持つ特徴だと思うし、要は彼の俳句がそのような現代文化にうまく肉薄しているということの帰結なのだろう。

 

矢田鏃『石鏃抄』(霧工房/2016年7月刊)

しぶしぶと夜は光だす夏の草
うつとりとヤゴを話さそうではないか
悲哀物質ゆゑよこたはる薄氷
少年や愛で火達磨の晩夏よ
ベッドの下鉄パイプと配線 母よ
十一階から小さくて春の犬
石畳仄かに濡れる天動説
春の道の凹凸と葉々やはらかし

 この句集にある奇妙な感覚は面白いと感じる。いささか大仰な言葉遣いが目立つがそれも詩を形作るひとつの方法論だし、その呼びかけのスタイルは西洋的でもあるが、それも近代俳句のひとつの流れでもある。しかしそのような作風の中で、十一階の犬のような句が個人的には気になった。他の句の言葉遣いから比べると、いささか地味とも見える句だ。十一階から見下ろした風景と捉えるのが順当だろうが、それにしてはどこか語法が変だ。どこかしら空間自体が歪んでいるような妙な気分になる。とするとさらに気になってくるのが、十一という数字だ。なぜ十一なのか。どう考えてもそこに合理性はなく、ある意味では気まぐれというか、必然性のない選択なのだが、その必然性のなさこそがある種の必然的な喚起力を持つ、という、これまた不思議な回路がここに成立している。

 

池田澄子『思ってます』(ふらんす堂/2016年7月刊)

春寒の灯を消す思ってます思ってます
菜の花や空気ぼんやりその辺に
不幸そうに美女登場す夏芝居
少し古いけど風邪薬ですどうぞ
野暮用に突如霰が加わりぬ
寒月下船が出るぞと英霊たち
月へ浮き黒く丈夫な潜水艦
寒ければ各自我慢のうえ集合
遠い樹へ目のゆきつきし端居かな
今日のように日昇り東京大空襲

 もともと口語的な語り口を特徴とする作者だが、この句集はこれまでよりもさらに口語的・話し言葉的な傾向が強くなっている。そしてそれゆえに、なんとも幼子めいてもいる素朴な言葉遣いのようにも思え、少なくともどこか奇を衒うような言い回しはここには見当たらない。ある句はまるで、日常会話からそのまま無造作に切り取ったかのようにも見える(「寒ければ」の句などがそうだろう)。そう考えると、それは言葉の進化を退行する方向のようにも見えかねない。それはある意味で真実なのだが、それはしかし、言葉の根源に遡るという意図とも思える。というのも、ここでの素朴な言葉は、単に素朴なだけではなくて、どこかお伽噺めいた雰囲気を持っているからで、それはつまり古層に繋がる言葉の吹き溜まりのような場所でもある。言葉の古層と言うと、多くの人は古典などを参照することを思うだろうが、この句集で提示されているのは、それとは違う形での言葉の根源への遡行なのかも知れない。この句集の中を行き交う楽しげなお伽噺めいた足音の気配は、そんなことを思わせる。

 

鳴戸奈菜『文様』(角川書店/2016年7月刊)

花火あとの闇の深さを帰りけり
十一月こんなところに墓二つ
緑濃し湖面の小舟傾ぎおり
夏の風椅子のかたちに身を折りぬ
どの紐も恐し花の夜ひとりなら
玄関に船の絵掲げ夏に入る
真ん中に川の流れる春景色
なるはずのない蛇になり川泳ぐ

 ある種の濃さのようなものをこの句集には感じるのだけれど、しかしこの濃さとはいったい何だろう。それをアニミズムと言ってしまえばどこかステレオタイプな見方になるかも知れないが、それでも確かにこの濃さはある種の生命感と繋がっている。その濃さは、匂いや濃度や湿度を確かに持っている。それはいろんな意味で、どこかぞくぞくする存在なのだ。それはきわめて微細な感覚であると同時に圧倒的な感覚でもあり、捉えがたいが確かに存在するものだ。だからなぜだか、ぞくぞくする。人は美しいものや楽しいものに触れても、あるいは不気味なものや怖いものに触れても、どちらもぞくぞくすると思うが、まさにこの句集にはそのようなものがすべて一種になったような、ぞくぞくする感覚に溢れている。

2016年4~6月の句集 『豆の木20号』『みつまめ』『間取図』

『豆の木20号』(2016年5月刊)

いちご憲法いちごの幸せな国民  田島健
途中下車してしばらくは霧でいる  月野ぽぽな
早春の歩く速さが偽姉妹  内藤独楽
廊下は走るな悪趣味なポスター  中内火星
演歌ならバーブ佐竹と毛皮夫人  中嶋憲武
ロールキャベツ白鳥はとてもおしゃべり  夏谷胡桃
海と陸収め朧の硯箱  三島ゆかり
この先は火事のひろがる蝶番  三宅桃子
空港に歩いてゆける勾玉屋  宮本佳世乃
妹がぼんやり座る白むくげ  室田洋子
スリッパに右左なく月の宿  矢羽野智津子
ひとびとの群青色の祭かな  山岸由佳
大花火果つ鳴り止まぬクラクション  吉田悦花
秋蝶の眼すべてに泥の海  吉野秀彦
押し合つて羊の帰る夕夏野  鷲巣正徳
湯治場の手から手また寒卵  石山昼妥
黒くあれヤマザキパン春のパン祭り  上野葉月
天然水ぐらぐら揺れて祭来る  大石雄鬼
肘をつくための教科書鳥雲に  太田うさぎ
初夢の中断されてそれつきり  岡田由季
おしやべりな鏡を閉ぢてクリスマス  柏柳明子
螢火に誘われ川に鍵落とす  片岡秀樹
なつかしき傾きありて立葵  川田由美子
休んでいる頭を入れる冬帽子  こしのゆみこ
遠足の先頭がやや黒ずんで  近恵
さまざまの命の果や冷蔵庫  齋藤朝比古
アメリカの地図の端つこ桜咲く  しまいちろう
月白の空き地の椅子の絡みあふ  高橋洋子

 本誌は、僕にとってはホームタウンのようなもので、集っている人たちもなにやら戦友めいている。集ってはいるもののそれぞれに独自の世界を持っているし、それに応じた実績がある人も多い。だとすれば、特に明白な共通点もない集まりとも思えるが、それでもひとつだけ、不思議な共通点があると感じる。それは、彼らがみなどこか、少しだけ俳句の上で「おしゃべり」であるということ。俳句はもともとどこか寡黙な形式であり、それが美点でもある。だがそのことから見ると、どうもここに集っている人たちはどこか少しだけ俳句形式の中において饒舌なのだ。少なくとも、彼らは俳句という形式自体が本来的に語ろうとすることよりも、何か少しだけ、多くのことを喋ろうとする。言ってみれば、それは何かの過剰さなのだろうが、その過剰さの形はこれまたそれぞれの人において違っている。しかも面白いことに、その過剰さは、(過去の俳句史においてしばしば見られたように)決して俳句形式に対する意義申し立てを意味することもない。俳句形式をわりと素直に肯定しつつ、しかしどこかにおいて何かが過剰なのだ。
 この過剰さが、彼らにもともとあったものなのか、それともこのグループにいるうちに身についたものなのかは僕もわからない。ただひとつだけ言えることは、その過剰さはこのグループにいることによってある特定の形を取った、ということだろうか。そう思うと、このグループは何かの過剰ということをきっかけとして形成されていく磁場のようでもある。


『みつまめ2016年立夏号』(2016年5月刊)

鳴らすたび三味線夏の海を呼ぶ  鈴木光影
鍵預け黄金週間はじまれり  梅津志保
短冊を結び直すや警備員  同
ゆったりと西瓜切り分け父の家  同
蜜蜂にさよなら晴れてよかつたね  井上雪子
二の谷に魚屋あつて梅白し  吉野裕之

 この号の、梅津さんの作品が個人的にはよかった。日常生活と詩との関係をどう作るかという問題は、詩全般にとって永遠の課題だろうが、その課題をいい形で消化できている作品群だと感じた。彼女の作品には、穏やかだが少しだけ踏み込んだ眼差しのようなものを感じる。多くの俳人は世界を「観察する人」になりがちなのだが(そして一概にそれが悪いとも言えないのだが)、彼女は世界に対して観察者というよりも行為者・関与者としての眼差しを注いでいる。つまり、観察者という立場に比べて、彼女は作品を取り巻く世界に対してほんの少し前のめりであり、そのことは彼女の眼差しの持つ仄かな温度に象徴されていると感じる。その眼差しを通じて作品に行き渡るこの仄かな温度こそが、作品世界を豊かなものにしている。


広渡敬雄『間取図』(角川書店/2016年6月刊)

冬すみれ夕暮れ畳むやうに来て
裏返りつつ沢蟹の遡る
初鴨の声を均せる湖の風
観音と暮らす百戸や冬支度
文旦を抱へて闇にゐるごとし
階段に折れし人影秋の暮
ずっしりと単三電池あたたかし
草を擦りつつ上りゆく鯉幟
片蔭にゐる公用車地鎮祭
病棟の渡り廊下や夜の蟹
間取図に手書きの出窓夏の山
一升瓶包む手順や夕かなかな
鍵穴や弥生の光集れり
麦秋や一番星の焦げくさき
煤逃げの犬嗅ぎ合うて別れけり
帽子屋に帽取棒や春深し
蓮舟の屋根のゆくなり蓮の中
踏台の中に弁当袋掛
水銀のやうなレールや夏来る
妻ひとり飾りし雛を納めゐる

 この作者には、旧字体の静かな佇まいがよく似合うし、それは俳人にとっては大きな美点であることも間違いあるまい。その美点を活かした素晴らしい作品が多いのだが、個人的には夜の病院の句などが特によかった。この句には、世界を構成する即物的な要素しか存在しない。つまり、人間の行為や感情などは、少なくともここでは明示的には触れられていない。だが、そのような物理的構成要素が、その空間の持つ雰囲気やそれが必然的に孕む感情の襞のようなものを確かに伝えている。同様に帽子屋の句などにも惹かれたが、店のやや薄暗い空間に蓄積した澱のようなものが人間の持つ本質的な何かを確実に伝える。
 これらの作品に共通した特質をあえて言うなら、「世界のスイッチ」のようなものだと感じる。世界を動かす巨大なメカニズムが回り出す、その瞬間のようなものを、この作者は俳句形式を使って捉えることに巧みなのだ。きわめて小さな瞬間だが、それはしかし世界全体を動かす大きな大きなメカニズムと確かに連動している。それは世界という舞台を動かし始める、ひとつの小さなスイッチなのだ。そしてそれは確かに、俳句という形式が持つエッセンスでもある。

2016年1~3月の句集 『火蛾』『星の木』『転校生は蟻まみれ』

藤野武『火蛾』(角川書店/2016年1月刊)

 冬の校庭白線引くも片思い
 パンの香と淡雪の音妻の午後
 嘔き気するほど路地明るくて夏は来ぬ
 手花火の白く衰えゆく岬
 牛三頭人二人夏がとぼとぼ帰ってくる
 晩夏の妻塗料のようにおとろえゆく
 遠雷や野の重心のうつりゆく
 雛飾る火の匂いする妻の手よ
 妻と白菜そのあいまいな流線
 ごちゃごちゃと命乗り込む冬の列車
 ペペロンチーノ舌に晩夏のあかるさよ
 軽薄なポリバケツ飛ぶ春の風
 沢庵や月白のごと大家族
 鋭角に霧めくれゆく帰郷
 豆叩く母よ光を繰るように
 ほたる一つ異種交流譚のはじまり
 舗道に少年西瓜のように坐りこむ
 新宿晴天口中微かに血の匂い
 セシウム降り積み母は葱畑に小さし
 冬の街に夥しき角というものあり
 そうめん茹でる他郷に水のように生きて
 激し美し哀し花火や夏の病院

 実績から見ても作品の質から見ても、藤野氏が卓越した俳人であることに間違いはあるまいが、それでも彼の言葉遣いはきわめてシンプルであることにあらためて驚く。複雑なレトリックや気取った用語を使うこともない。季語すらも、春・夏・冬といった直截的な表現が目につく。
 そしてこのシンプルさに加えて彼の俳句の特徴は、大胆さというところにあると思う。つまり、シンプルにして大胆、ということになるが、シンプルな言葉を使うということは決して世界に平易に寄り添うということは意味せず、シンプルな言葉を使いながらも彼の俳句は冒険的と言ってもいいような振れ幅の大きい表現スタイルを取る。この結果、彼の作品はなぜか全体に明るい。明るいというのは楽しいといった意味でもなく、真の意味での色調として、明るい。それは現実世界と比較しても、あるいは他の俳人の俳句世界と比較しても、どうも目盛りひとつくらいの差で、明るい。それゆえ、彼の作品を一言で表現すると、〝心地よい悪夢〟みたいな感じが漂う。ちょっと奇妙な言い方になるかも知れないが、もちろんこれは褒め言葉として言っている。表現の大胆さはどこか悪夢めくのだが、その言葉がシンプルで直截的であるためにその悪夢の色調は全体的に目盛り一つ分だけ明るいほうに振れ、それが結果として〝心地よい悪夢〟のようになる。それは、現実からひとつ目盛りがずれた世界、というふうにも見え、作品世界としてはきわめて興味深い世界と思える。

 

『星の木16号』(2016年2月刊)

黄金のスープを犬にクリスマス  大木あまり
水深くゐる鯉の眼や初詣  同
栗拾ふための運動靴を履く  石田郷子
矢印の三つ灯りて冬木立  同
月さしにけりもう会へぬ人の数  藺草慶子
吹雪く夜を観音の夢人の夢  同
樹の下へ荷物集めよ秋高し  山西雅子
係留の帆柱の音冬うらら  同

 昨年刊行された藺草氏の句集は圧倒的な力量のものだったと思うが、この冊子に掲載された句もその句集に繋がる環境の中で作られたのだろう。そしてそれは、単に彼女の作品の同士が繋がっているのでもなく、やはりこの冊子に参加している他の三人ともなだらかにその地平は繋がっているようだ。このことは以前にも書いたようにも思うのが、やはりこの冊子を構成する四人という、つまり数字の四というものが大きな力を持っているとしか思えない。四という数字はここにおいてどこかマジカルだ。三人なら二対一となって分裂を生みやすい。一方で五人以上となると、個人同士の向き合いよりも集団としての側面のほうが強くなる。そう思うと、注目すべき小グループの俳句冊子は四人で構成されていることが多い気がする。俳壇で注目されている『オルガン』も、創設メンバーは四人。余談ながら、ビートルズも四人で、はっぴいえんども四人。そう見てみると、四人という磁場が作る何かが確実にあるように思える。特に俳句はそもそも場の文芸であるのだから、この四人の磁場の持つ意味はけっこう重要だと思うし、『星の木』の四人の磁場も、藺草氏の句集という大きな成果へと確実に繋がっているのだろう。

 

小池正博『転校生は蟻まみれ』(編集工房ノア/2016年3月刊)

盲腸のない三人を召集す
いつもそうだった牛部屋のニヒリズム
ますます白くなってゆく暴力装置
戸じまりを充分にして島流し
都合よく転校生は蟻まみれ
羽虫飛ぶ滝の裏には滝の耳
京劇の面をかぶると波の音
稽古はやめだ君が火星を狂わせる
人形も人形遣いも手は紫
夢を見ているマカールという男
悪寒以後布団の中に乾いた手

 読み手を少しばかり驚かせるような言葉遣いというのは川柳の世界では好まれる手法なのか、少なくともこの作者の作品ではそうだ。どこか出合い頭の事故めいていて、それは俳句のように焦点となる季語がないからなのか、川柳の力はある種のギャップから引き出されてくるような面がある。ギャップとはつまり、ある世界と、ある世界の、その相互の間のロジカルな齟齬のことだ。
 少し興味を持った句がある。
 京劇の面をかぶると波の音
 この句は、俳句を作り慣れた身からは微妙な違和感がある気がして(あくまで個人的な感覚に過ぎないのかも知れないが)、つまり俳句ならこう作られそうな気がする。
 京劇の面をかぶれば波の音
 この二つの違いはというと、前者の方が微妙に因果関係の繋がりが強いように思える。微妙なニュアンスの違いではあるのだが、意外にこの違いは俳句と川柳の違いを指し示しているようにも思える。それは、ロジックというものに対する向き合い方の違いだ。川柳はロジックというものを利用するのに対し、俳句はむしろそれを避ける傾向がある。川柳は往々にして、自らの独自のロジック世界を作ろうともする。そしてその独自世界のロジックと現実世界のロジックのぶつかり合いを愉しんでいるような印象もある。となると、見せ場はいかにして独自のロジック世界を作るか、ということになるし、出合い頭のような言葉遣いもそのようなロジックのぶつかり合いに起因するのだろう。

「虚実超越した肉感性」~照井翠さん評 (『秋田さきがけ新報』2016年8月25日号に掲載)

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 照井翠さんが現代俳句協会の新人賞を受賞したのは二〇〇二年。私自身も同じ年の評論賞を受賞したのが縁で、それから彼女との息長い交友が始まった。その後何冊か句集を送ってもらったが、その作品に触れる度に少し嫉妬心のようなものも感じていた。もちろん鮮やかな言葉遣いに感服したということもあるが、それだけではない。彼女は海外詠というテーマに継続して取り組んでいて、そのように異郷への足跡を作品の形で結実させているのがどこか妬ましく思えたのだ。「ここではないどこか」を希求するのは、少なからぬ創作活動全般の潜在的な欲望なのだと思うが、それを明確な作品の形にできている人は決して多くはない。

 だが、この時点で彼女の俳句がある種の安定的な段階にあったとは私は思わない。

万緑を縫綴じてゆく競歩かな

 この句は初期の代表作だろう。卓越した句であり、虚と実を繋ごうとする彼女の意図が作品として結実しているものの、それは安定した手法というよりはどこかに大きな危うさを孕んでおり、だから作者自身のもどかしさのような感情も微かに感じる。もがきながらやっと形にした虚と実の結合は、それゆえにどこかまだ作品としての危うさを宿してもいたのだ。

 だが彼女の中でのそんな構図は、あの日を境に変わった。

 その三月十一日の深夜、私は彼女に安否を尋ねる一通のメールを送った。しばらく日が経って、返信が返ってきたのを見て少しだけ安堵したことを覚えている。だがそのメールには、彼女の住むアパートのすぐ傍まで全部津波で流されたといったような、東京からは実感しづらい釜石の惨状が綴られていた。それでもそのメールの中で、少し意外に思った印象的なことがある。それは、その三月十一日に彼女が見た夜空のこと。彼女自身、さまざまな海外の僻地で澄んだ夜空を見てきたが、それらの夜空のどれよりも、その夜の東北の夜空は圧倒的だったと彼女は記していた。

寒昴たれも誰かのただひとり

春の泥抱き起すたび違ふ顔

 その震災の経験を経て、彼女は一冊の句集を書き上げる。そのタイトルは『龍宮』。文字どおり、「ここではないどこか」を示すようにも思えるその場所は、ある意味では彼女の海外詠の試みの系譜にも繋がる。だが大災害後に、現実とは思えない現実に向き合わざるを得なかった彼女の中で、虚と実の関係もそれまでとは大きく変化した。

 『龍宮』は結果として現代俳句協会特別賞と俳句四季大賞を受賞し、さらに俳句界だけに留まらない多くの識者から注目され、評価された。だがその『龍宮』について、ある時メールをやりとりしている中で彼女自身がこんな趣旨のことを語ったことがある。この本の弱点はまさに、それが震災のことを描いた句集だという点にある、と。いろんな解釈ができるコメントだろうが、俳句はあくまで俳句作品として自立すべきだという思いが彼女の中にあるのかも知れない。

 また『龍宮』について、彼女は自身のエッセイの中で「『龍宮』の作者は、誰なのだろう?」とも語っている。確かに、『龍宮』はまるで死者たち自身が書いた句集であるような雰囲気を持つ。彼女が見たあの日の夜空は、そんな異界にも繋がっていたのかも知れない。

 そして震災から時を経て、彼女の俳句がどこか変質してきたように私は感じている。そこでは、「声」に代表される人間の肉感性のようなものが際立ってきていると思えるのだ。

ひとりづつ呼ばるるやうに海霧に消ゆ

霧がなあ霧が海這ひ魂呼ぶよ

蜩や無念の声のうす濁り

死に近き声やはらかや籠枕

手花火の何か言ひかけては尽きぬ

声ごゑの陸より湧ける初日かな

 震災以前の、虚と実の間を往来する彼女の句は、想像性に充ちて、であるがゆえに構成的・視覚的でもあった。だが震災体験を経て彼女の句もどこか変質した。あの夜空を見た日以来、彼女は死者の声を聞き取ろうとし続けているのかも知れない。その声はもはや虚や実といった境もあっさりと超え、ただひたすらに肉感的である。聞こえるはずのない声を聞き分けて、虚実を超越した肉感性を孕む言葉を紡ぎだすのは、まさに彼女の天賦の才があってこそだろう。それは、彼女にとっての大きな到達であるだけでなく、近代俳句史にとってもひとつの大きな到達点と思える。

 

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小野裕三

おの・ゆうぞう 68年大分県生まれ。俳人。現代俳句協会評論賞。「海程」「豆の木」所属。句集に「メキシコ料理店」、共著に「超新撰21」「現代の俳人101」。

「春遊」 (『俳壇』2016年5月号に掲載)

www.honamisyoten.com

春遊

 

春遊へ金の足音銀の足音

ランドセルに仕舞う箱あり飼うように

探梅を終えるあたりが光めく

一階の雨が鳥の巣を覗くかな

三月十日獏は何喰らう翳か

 

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 俳句は日本文化のエッセンス、と思う半面、俳句は常に実験的であれ、とも思う。それは単純な理由で、俳句は短くて多産しやすいから実験の検証に向く。興味深い俳句自動生成プログラムも既に作られ、近年では人工知能が人類を超える「シンギュラリティ」が一般に注目される。今後さらに進化すれば、人工知能は人間にチェスや将棋で勝ったように俳句でも勝てるのか。実験がどちらの結果でも、人間の持つ創造性や知性の今後を照らす示唆になりうる。そのような二十一世紀的観点から、俳句は「実験」に果敢であるべきだ。

「雨の生活」 (『俳壇』2015年11月号に掲載)

www.honamisyoten.com

雨の生活

 

海の歌に初速ありけり終戦日

星飛んで港栄える遠近法

雨立ち込めて昆虫展の奥に人

百年計画露草は雨降る単位

雨の生活くらやみ坂はやさしい目

 

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東京湾の、数奇な想像力

 

 東京湾は、不思議な場所だ。首都圏と呼ばれる地域はおおむねその湾を取り囲むように連なる。夜には、たくさんの灯がその海を縁取る。輝く工場群や高層ビル。縦横に行きかう高速道路。海に面した空港、公園、遊園地。光に切り取られたように、黒い海が浮かぶ。

 大戦末期に米軍が原子爆弾を開発した時、街に投下せずに東京湾に投下しようとする案があった、と聞いたことがある。街を極力破壊せずに軍部や政府に威力を誇示する手段だったというわけだ。戦後になって丹下健三の発表した都市開発プラン「東京計画1960」では、東京湾を横断する巨大な海上都市が構想された。そんな壮大な未来像を小出しに後追いするかのように、やがて東京湾には長大な海底トンネルが開通し、お台場や豊洲には新しい街が作られた。その海底トンネルと繋がる「海ほたる」は、東京湾の真ん中に海の中から忽然と現れたような不思議な建築物だ。建物というよりはもはや小さな「島」にも思え、都会的なものがくるっとねじれてリゾート地に繋がったみたいな飛躍がある。

かくして、東京湾という場所は日本の近代・現代史にまつわる数奇な想像力によって彩られてきた。それは、いわゆる俳句的な情緒とはいささか結びつきづらい想像力かも知れない。だが、だとすればだからこそ、それを読み解くための〝新しい情緒〟があってもいい気がする。そんなことを、東京湾という不思議な場所は考えさせてくれる。