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YuzoOno.blog

小野裕三の公式ブログです。

2015年10~12月の句集 『櫻翳』『地祇』『地球の音符』『みつまめ』

藺草慶子『櫻翳』 (ふらんす堂/2015年10月刊)

枯れすすむなり夢違観世音
水に浮く椿のまはりはじめたる
昼夜なき盆提灯をともしけり
揺れながら照りながら池凍りけり
一斉にもつれ上がりて鯉幟
永き日の戸袋に戸のあつまりぬ
若き日々あり初蝶を見失ふ
向日葵や人老いてゆく家の中
ぐいと肩攫まるるごと寒に入る
すこし開け一日雨の障子かな
花びらの散りこむ靴をそろへけり

 この句集は劇的に美しい。
 俳句文芸の真髄のようなものが、ひとつひとつの句に浸み渡っている。それらは堂々として、かつ繊細でもある。そしてそれぞれの句は必ず季語の核心のようなものにぴたりと寄り添い、ぶれることがない。ここでは、俳句の本質ということが季語の本質ということとほぼ同義のように思えるし、その様は作者自身というよりもまるで言葉たちが内在的に持つ信念のようにすべての句を覆う。そのような結果として、馥郁たる香、とでも言うべきものがこの世界には充ちている。
 真摯に季語に寄り添うことの強さが、かくも凄まじいものか、と驚かざるをえない。
 思うのだけれど、季語というのはそもそもファンタジーとしての現実なのだ。その意味とはつまり、現実から乖離したファンタジーを作るのではなく、むしろ季語という道具を使うことで現実世界をファンタジーで塗り上げてしまうこと。それはだから、言葉と生活を巻き込む壮大な実験のようでもある。
 この壮大な実験はしかし、決してすべての人においてうまく行くわけでもない。だが、ひとたびその焦点がぴたりと重なりえれば、その強さは恐ろしい。現実の持つ強さとファンタジーの持つ強さが、ともにそこでは発揮されるからだ。そしてそれこそが、俳句に秘められた最奥の秘術だとするなら、この句集は十全にその秘められた力を発揮している。だからその句集は、恐ろしいほどに美しい。


渡辺誠一郎『地祇』 (銀蛾舎/2015年11月刊)

千人の祈祷師のごと芒原
ねばねばの老人もいて春の丘
何時から失語寝室に蟹生まれ
晩夏の飛行機つんとアメリカの匂い
遺書一枚外階段を降りてくる
風に風押されて秋の風となり
死ぬ側にそっと押し出す心太
立ち読みのごとく敗荷見ておりぬ
日本の春にはよけれ保健室
検針員いつも死蝶の匂いして
三月十一日姉の金魚を走らせる
さいはての夜店に父の旅鞄

 言葉遊びという言い方があって、それは通例ではあまり積極的な意味には用いられない。むしろどこか誠意を欠いた、真剣味のない行為とすら捉えられかねない。あるいは少なくとも、俳句を含む詩歌を評する場合に、それが褒め言葉として使われることはまずない。
 もちろん、それが言葉遊びであろうとも、その遊びが上質なものであれば、当然にそこから生まれた言葉も美しい。だが、たぶんそこでは言葉の美しさ云々よりも、それが現実というものから乖離していることが批判されるのだろう。それは美しくあったとしても根無し草のような言葉でしかなく、それゆえにそれはある種のエネルギーを欠いていると批判されるのだろうし、さらには仮にそうでもないとしても、少なくともどこかが不誠実なものとして批判されそうだ(現実から遊離した詩歌なんて!というわけだ)。
 だが、そのような批判は正当なのだろうか。例えばこの句集も、どこか言葉遊びとも謗られかねない句群なのだと思う。確かにこれらの句は、現実、あるいは少なくとも現実の空間には寄り添っていない。だがにもかかかわらずこれらの句はエネルギーに充ちているし、もっと言うなら、それらの句は現実の空間を写し取ってはいないが、現実の人生の何かを写し取ってはいるように感じる。現実の空間を写生するといった行為とはまったく違ったレイヤーで、現実の人生における何かといういささか形而上的なレベルでの物事を写し取っている。それは、これらの句がきわめて上質な言葉遊びであったからこそ、なしえたことなのかも知れない。


豊里友行『地球の音符』 (沖縄書房/2015年12月刊)

紫陽花のほかはうつろうまちにすみ
鯨舞うみんな地球の音符なり

自転車の車輪がみがく冬の空
死者光るどれも落ち葉のダンサーなり
戦争の足音が来るカスタネット
すいつくすかげもしずくもない炎天
背番号だけを残して畳む夏さん
家電の鮫らぱちぱち喝采に馴れ
おーい! 芒は全校生徒の体操
ポケットより取り出す湖底の街燈り

 沖縄生まれのこの作者の句には、先入観かも知れないがやはり「沖縄」というイメージが付いて回る。南の海の中にぽっかりと浮かぶ島の県で生まれたという事実が、彼の句をいかなる意味でも規定しているように思える。
 なにしろ、彼の句はとにかく明るい。明るい、というのは楽観的という意味ではなく、とにかく色合いのコントラストが強い、という意味。沖縄には戦争や米軍基地の影が色濃く落ちていて、もちろん彼はそういうものにも目を向ける。だから彼の句が楽観的というわけではない。ただただ、色使いというか、その色使いによるコントラストが明るいのだ。それは、南国特有の日射しの強さと何か関係するのかも知れない。
 俳句というのは、基本的には四季がある土地の陰影のようなものを基盤として育まれてきた。つまり、淡い光と淡い影の対照のようなものを元に、俳句という文芸は営まれてきた。俳句というものが本来的にはそのように淡い光と影の織り成す文芸だとするなら、彼の俳句は興味深いことに、強い色と色のコントラストを元に営まれているような気がする。それを俳句の亜熱帯的進化、と考えるとなんだか面白い。

 

『みつまめ2015年立冬号』(2015年11月刊)

 六月や翅の漆黒迷ひなし  井上雪子
西瓜切る夜や青さが匂ひけり  同
僕たちが静かに身体にゐて立冬  同
果樹園の実りを巡る夏帽子  梅津志保
高跳びの背中で越える夏の果て  同
涼しくてホームありけり原爆忌  吉野裕之
食堂も馬も空腹秋日和  同

 小さな冊子なのだけれど、発行されるたびに楽しく読んでいる。冒頭に三句を引いたが、この作者の持つ鋭敏さは世界の何か本質的なものを的確に言葉で掴み出す。もちろん鋭敏な感覚が世界を捉えるという話は一般的にもよくあることとは言えるのだが、この作者の鋭敏さの特徴はきわめていい意味で世界の表層を捉えることに成功している点だろう。この表層とは、どこか些末とすらも見える周辺的なものであると同時に、世界を確実に描き出すのには不可欠な輪郭線でもある。そのようなふたつの側面を持つ世界の表層を、この作者は五感のすべてを巧みに使って、どこか動きあるものとして摘出する。その動きとは必ずしも物理的な意味での動きということでもなく、といって観念だけでもなく、どこか〝人の目にはわかりにくい生々しさ〟のようなものを確かに掴んでいる。面白いのは、これらの句の字面自体にもどこかそのような生々しさが感じられること。まさに言葉こそは、上記のような意味での表層的な存在であるからだろうか。

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これまで、長らく「関心空間」内でブログを書いていたのですが、

『ono-deluxe』(小野裕三公式ブログ)の空間 - 関心空間

残念ながら「関心空間」のサービスが終了するとのことで、こちらに引っ越してきました。記事はこれから書いていきます。