YuzoOno.blog

小野裕三の公式ブログです。

2016年7~9月の句集 『夢洗ひ』『風景』

恩田侑布子『夢洗ひ』(角川書店/2016年8月刊)

筆筒に孔雀の羽や冬深し

古ひひな咽に雨のふりしきる

香水をしのびよる死のごとくつけ

夕焼のほかは背負はず猿田彦

一族の絶えし火鉢を熾しけり

もう居らず月光をさへぎりし父母

自転車のチェーンの弛み花の闇

瞑りても渦なすものを薔薇とよぶ

柱なき原子炉建国記念の日

 この作者の句群には強く共感するところがあり、日本語の深みのようなところへ潜っていこうとしているように思える。漢字の使い方に独自のこだわりが見られるが、日本語特有の、いくとおりにも漢字を書き分けることができるという特性は、日本語という言葉がまさに襞を持っているようにも思える。そして彼女は、日本語の持つさまざまな襞に分け入っていく。俳句が日本語だけに限られる文芸だとはもちろん一般論として僕も思わないのだが、こと彼女に関しては、日本語という言語自体を強く詩嚢にしているように思える。そのような言語自体に内在する泉から、日本文化の光と影も匂い立ってくるし、それが織りなす陰翳の場所に俳句も立ち上がる。

 

九里順子『風景』(邑書林/2016年9月刊)

その夜の黒きコートのその下の

ももいろをブルーが支へ夏の船

白靴を脱ぎて鏡の右ひだり

ビニールプール立てかけてある楓の木

松の芯角を揃へて資料置く

学生ら喉元ならべ夏のゼミ

桜紅葉踏みしめランナー遠ざかる

川いくつ西へ西へと秋の旅

梅の闇姉妹の中を川流れ

空港へ向ふあんたは冬の雨

 とにかく、軽やかなセンスを感じる句群だ。活き活きと、明るい。どの句にも躍動感がある。言葉自体がきわめて透明で、なので言葉の介在なしにそれぞれの句の持つ触感に直接触れることができるような、そんな錯覚すらも抱く。言葉抜きの触知性のようなものが、これらの句群には感じられる。とすればつまり、彼女の言葉の持つ透明さがすべての句の躍動感を支えているのだろう。