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小野裕三の公式ブログです。

2016年1~3月の句集 『火蛾』『星の木』『転校生は蟻まみれ』

藤野武『火蛾』(角川書店/2016年1月刊)

 冬の校庭白線引くも片思い
 パンの香と淡雪の音妻の午後
 嘔き気するほど路地明るくて夏は来ぬ
 手花火の白く衰えゆく岬
 牛三頭人二人夏がとぼとぼ帰ってくる
 晩夏の妻塗料のようにおとろえゆく
 遠雷や野の重心のうつりゆく
 雛飾る火の匂いする妻の手よ
 妻と白菜そのあいまいな流線
 ごちゃごちゃと命乗り込む冬の列車
 ペペロンチーノ舌に晩夏のあかるさよ
 軽薄なポリバケツ飛ぶ春の風
 沢庵や月白のごと大家族
 鋭角に霧めくれゆく帰郷
 豆叩く母よ光を繰るように
 ほたる一つ異種交流譚のはじまり
 舗道に少年西瓜のように坐りこむ
 新宿晴天口中微かに血の匂い
 セシウム降り積み母は葱畑に小さし
 冬の街に夥しき角というものあり
 そうめん茹でる他郷に水のように生きて
 激し美し哀し花火や夏の病院

 実績から見ても作品の質から見ても、藤野氏が卓越した俳人であることに間違いはあるまいが、それでも彼の言葉遣いはきわめてシンプルであることにあらためて驚く。複雑なレトリックや気取った用語を使うこともない。季語すらも、春・夏・冬といった直截的な表現が目につく。
 そしてこのシンプルさに加えて彼の俳句の特徴は、大胆さというところにあると思う。つまり、シンプルにして大胆、ということになるが、シンプルな言葉を使うということは決して世界に平易に寄り添うということは意味せず、シンプルな言葉を使いながらも彼の俳句は冒険的と言ってもいいような振れ幅の大きい表現スタイルを取る。この結果、彼の作品はなぜか全体に明るい。明るいというのは楽しいといった意味でもなく、真の意味での色調として、明るい。それは現実世界と比較しても、あるいは他の俳人の俳句世界と比較しても、どうも目盛りひとつくらいの差で、明るい。それゆえ、彼の作品を一言で表現すると、〝心地よい悪夢〟みたいな感じが漂う。ちょっと奇妙な言い方になるかも知れないが、もちろんこれは褒め言葉として言っている。表現の大胆さはどこか悪夢めくのだが、その言葉がシンプルで直截的であるためにその悪夢の色調は全体的に目盛り一つ分だけ明るいほうに振れ、それが結果として〝心地よい悪夢〟のようになる。それは、現実からひとつ目盛りがずれた世界、というふうにも見え、作品世界としてはきわめて興味深い世界と思える。

 

『星の木16号』(2016年2月刊)

黄金のスープを犬にクリスマス  大木あまり
水深くゐる鯉の眼や初詣  同
栗拾ふための運動靴を履く  石田郷子
矢印の三つ灯りて冬木立  同
月さしにけりもう会へぬ人の数  藺草慶子
吹雪く夜を観音の夢人の夢  同
樹の下へ荷物集めよ秋高し  山西雅子
係留の帆柱の音冬うらら  同

 昨年刊行された藺草氏の句集は圧倒的な力量のものだったと思うが、この冊子に掲載された句もその句集に繋がる環境の中で作られたのだろう。そしてそれは、単に彼女の作品の同士が繋がっているのでもなく、やはりこの冊子に参加している他の三人ともなだらかにその地平は繋がっているようだ。このことは以前にも書いたようにも思うのが、やはりこの冊子を構成する四人という、つまり数字の四というものが大きな力を持っているとしか思えない。四という数字はここにおいてどこかマジカルだ。三人なら二対一となって分裂を生みやすい。一方で五人以上となると、個人同士の向き合いよりも集団としての側面のほうが強くなる。そう思うと、注目すべき小グループの俳句冊子は四人で構成されていることが多い気がする。俳壇で注目されている『オルガン』も、創設メンバーは四人。余談ながら、ビートルズも四人で、はっぴいえんども四人。そう見てみると、四人という磁場が作る何かが確実にあるように思える。特に俳句はそもそも場の文芸であるのだから、この四人の磁場の持つ意味はけっこう重要だと思うし、『星の木』の四人の磁場も、藺草氏の句集という大きな成果へと確実に繋がっているのだろう。

 

小池正博『転校生は蟻まみれ』(編集工房ノア/2016年3月刊)

盲腸のない三人を召集す
いつもそうだった牛部屋のニヒリズム
ますます白くなってゆく暴力装置
戸じまりを充分にして島流し
都合よく転校生は蟻まみれ
羽虫飛ぶ滝の裏には滝の耳
京劇の面をかぶると波の音
稽古はやめだ君が火星を狂わせる
人形も人形遣いも手は紫
夢を見ているマカールという男
悪寒以後布団の中に乾いた手

 読み手を少しばかり驚かせるような言葉遣いというのは川柳の世界では好まれる手法なのか、少なくともこの作者の作品ではそうだ。どこか出合い頭の事故めいていて、それは俳句のように焦点となる季語がないからなのか、川柳の力はある種のギャップから引き出されてくるような面がある。ギャップとはつまり、ある世界と、ある世界の、その相互の間のロジカルな齟齬のことだ。
 少し興味を持った句がある。
 京劇の面をかぶると波の音
 この句は、俳句を作り慣れた身からは微妙な違和感がある気がして(あくまで個人的な感覚に過ぎないのかも知れないが)、つまり俳句ならこう作られそうな気がする。
 京劇の面をかぶれば波の音
 この二つの違いはというと、前者の方が微妙に因果関係の繋がりが強いように思える。微妙なニュアンスの違いではあるのだが、意外にこの違いは俳句と川柳の違いを指し示しているようにも思える。それは、ロジックというものに対する向き合い方の違いだ。川柳はロジックというものを利用するのに対し、俳句はむしろそれを避ける傾向がある。川柳は往々にして、自らの独自のロジック世界を作ろうともする。そしてその独自世界のロジックと現実世界のロジックのぶつかり合いを愉しんでいるような印象もある。となると、見せ場はいかにして独自のロジック世界を作るか、ということになるし、出合い頭のような言葉遣いもそのようなロジックのぶつかり合いに起因するのだろう。