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YuzoOno.blog

小野裕三の公式ブログです。

2016年4~6月の句集 『豆の木20号』『みつまめ』『間取図』

『豆の木20号』(2016年5月刊)

いちご憲法いちごの幸せな国民  田島健
途中下車してしばらくは霧でいる  月野ぽぽな
早春の歩く速さが偽姉妹  内藤独楽
廊下は走るな悪趣味なポスター  中内火星
演歌ならバーブ佐竹と毛皮夫人  中嶋憲武
ロールキャベツ白鳥はとてもおしゃべり  夏谷胡桃
海と陸収め朧の硯箱  三島ゆかり
この先は火事のひろがる蝶番  三宅桃子
空港に歩いてゆける勾玉屋  宮本佳世乃
妹がぼんやり座る白むくげ  室田洋子
スリッパに右左なく月の宿  矢羽野智津子
ひとびとの群青色の祭かな  山岸由佳
大花火果つ鳴り止まぬクラクション  吉田悦花
秋蝶の眼すべてに泥の海  吉野秀彦
押し合つて羊の帰る夕夏野  鷲巣正徳
湯治場の手から手また寒卵  石山昼妥
黒くあれヤマザキパン春のパン祭り  上野葉月
天然水ぐらぐら揺れて祭来る  大石雄鬼
肘をつくための教科書鳥雲に  太田うさぎ
初夢の中断されてそれつきり  岡田由季
おしやべりな鏡を閉ぢてクリスマス  柏柳明子
螢火に誘われ川に鍵落とす  片岡秀樹
なつかしき傾きありて立葵  川田由美子
休んでいる頭を入れる冬帽子  こしのゆみこ
遠足の先頭がやや黒ずんで  近恵
さまざまの命の果や冷蔵庫  齋藤朝比古
アメリカの地図の端つこ桜咲く  しまいちろう
月白の空き地の椅子の絡みあふ  高橋洋子

 本誌は、僕にとってはホームタウンのようなもので、集っている人たちもなにやら戦友めいている。集ってはいるもののそれぞれに独自の世界を持っているし、それに応じた実績がある人も多い。だとすれば、特に明白な共通点もない集まりとも思えるが、それでもひとつだけ、不思議な共通点があると感じる。それは、彼らがみなどこか、少しだけ俳句の上で「おしゃべり」であるということ。俳句はもともとどこか寡黙な形式であり、それが美点でもある。だがそのことから見ると、どうもここに集っている人たちはどこか少しだけ俳句形式の中において饒舌なのだ。少なくとも、彼らは俳句という形式自体が本来的に語ろうとすることよりも、何か少しだけ、多くのことを喋ろうとする。言ってみれば、それは何かの過剰さなのだろうが、その過剰さの形はこれまたそれぞれの人において違っている。しかも面白いことに、その過剰さは、(過去の俳句史においてしばしば見られたように)決して俳句形式に対する意義申し立てを意味することもない。俳句形式をわりと素直に肯定しつつ、しかしどこかにおいて何かが過剰なのだ。
 この過剰さが、彼らにもともとあったものなのか、それともこのグループにいるうちに身についたものなのかは僕もわからない。ただひとつだけ言えることは、その過剰さはこのグループにいることによってある特定の形を取った、ということだろうか。そう思うと、このグループは何かの過剰ということをきっかけとして形成されていく磁場のようでもある。


『みつまめ2016年立夏号』(2016年5月刊)

鳴らすたび三味線夏の海を呼ぶ  鈴木光影
鍵預け黄金週間はじまれり  梅津志保
短冊を結び直すや警備員  同
ゆったりと西瓜切り分け父の家  同
蜜蜂にさよなら晴れてよかつたね  井上雪子
二の谷に魚屋あつて梅白し  吉野裕之

 この号の、梅津さんの作品が個人的にはよかった。日常生活と詩との関係をどう作るかという問題は、詩全般にとって永遠の課題だろうが、その課題をいい形で消化できている作品群だと感じた。彼女の作品には、穏やかだが少しだけ踏み込んだ眼差しのようなものを感じる。多くの俳人は世界を「観察する人」になりがちなのだが(そして一概にそれが悪いとも言えないのだが)、彼女は世界に対して観察者というよりも行為者・関与者としての眼差しを注いでいる。つまり、観察者という立場に比べて、彼女は作品を取り巻く世界に対してほんの少し前のめりであり、そのことは彼女の眼差しの持つ仄かな温度に象徴されていると感じる。その眼差しを通じて作品に行き渡るこの仄かな温度こそが、作品世界を豊かなものにしている。


広渡敬雄『間取図』(角川書店/2016年6月刊)

冬すみれ夕暮れ畳むやうに来て
裏返りつつ沢蟹の遡る
初鴨の声を均せる湖の風
観音と暮らす百戸や冬支度
文旦を抱へて闇にゐるごとし
階段に折れし人影秋の暮
ずっしりと単三電池あたたかし
草を擦りつつ上りゆく鯉幟
片蔭にゐる公用車地鎮祭
病棟の渡り廊下や夜の蟹
間取図に手書きの出窓夏の山
一升瓶包む手順や夕かなかな
鍵穴や弥生の光集れり
麦秋や一番星の焦げくさき
煤逃げの犬嗅ぎ合うて別れけり
帽子屋に帽取棒や春深し
蓮舟の屋根のゆくなり蓮の中
踏台の中に弁当袋掛
水銀のやうなレールや夏来る
妻ひとり飾りし雛を納めゐる

 この作者には、旧字体の静かな佇まいがよく似合うし、それは俳人にとっては大きな美点であることも間違いあるまい。その美点を活かした素晴らしい作品が多いのだが、個人的には夜の病院の句などが特によかった。この句には、世界を構成する即物的な要素しか存在しない。つまり、人間の行為や感情などは、少なくともここでは明示的には触れられていない。だが、そのような物理的構成要素が、その空間の持つ雰囲気やそれが必然的に孕む感情の襞のようなものを確かに伝えている。同様に帽子屋の句などにも惹かれたが、店のやや薄暗い空間に蓄積した澱のようなものが人間の持つ本質的な何かを確実に伝える。
 これらの作品に共通した特質をあえて言うなら、「世界のスイッチ」のようなものだと感じる。世界を動かす巨大なメカニズムが回り出す、その瞬間のようなものを、この作者は俳句形式を使って捉えることに巧みなのだ。きわめて小さな瞬間だが、それはしかし世界全体を動かす大きな大きなメカニズムと確かに連動している。それは世界という舞台を動かし始める、ひとつの小さなスイッチなのだ。そしてそれは確かに、俳句という形式が持つエッセンスでもある。