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小野裕三の公式ブログです。

2016 年7~9月の句集 『古志青年部作品集』『白鳥句集』『やわらかな世界の肉』『石鏃抄』『思ってます』『文様』

『古志青年部作品集2016』(古志社/2016年7月刊)

夏料理てふせせらぎのやうなもの  イーブン美奈子
正月凧ひつぱるたびに揚がりけり  岡崎陽市
初蝶に鉄壁の天ありにけり  金澤諒和
白シャツの腕まっすぐに飛車香車  高角みつこ
凍つる夜をものともせずに神楽歌  丹野麻衣子
夏蝶と一本の道ゆづりあふ  辻奈央子
烏の巣烏がとんと収まりぬ  西村麒麟
炎天やひろき裏もつ東大寺  渡辺竜樹

 このアンソロジーは定期的に刊行されているようで、毎回面白く読ませてもらっている。俳句的な流れから言うと、きわめて正統的な作品群と言うことができるだろう。もちろん、何をもって正統とするのかは微妙な問題で、伝統に根ざしているから正統、とするのも短絡的だし、ある種のルールを遵守しているから正統、というわけでもない。それに、彼らの作品は正統的でありながらもとても瑞々しいものであると思うし、何かを踏襲することで縛られているような印象もない。
 彼らが正統的であると感じられる理由は、彼らが日本語の「筋目」のようなものを知悉しているからだと思う。それは、日本語の中に内在する(もちろん日本語だけが特別なはずもなくて他の言語にもあるのだろうけれど)、はっきりとは見えないが、まさに言葉にとっての要となるような、「筋目」。鍼治療とか、たぶんそんなものに似ていて、その要になる場所はわかる人だけわかる、という感じで、それはまさに暗黙の秘技のようだ。そして、季語というものはおそらく、そのような筋目を探るためのビーコンのような役割を果たすのだろう。このビーコンを使って、彼らは日本語にとっての要となる筋目を自在に歩き回る。正統的とも見えて、彼らの言葉がきわめて伸びやかなのは、そのようなことが理由なのだと思う。

 

松下カロ『白鳥句集』(深夜叢書社/2016年7月刊)

やがて滅ぶ 鳩 人 きりん 大白鳥
白鳥の姿も見えず身體圖
作法通りに白鳥は喉を突き
音のない雨コンビニへ白鳥へ
生き延びてけふ死ぬ雛へ銀の雨

 なんとなく心のどこかに引っかかるような存在感を持つ句集で、これはきわめて個人的な感覚なのだと思うが、なぜだか白鳥とコンビニという句が気になって、そうするとそもそも白鳥とコンビニの関係ってなんだっけ、と考えたりした。白鳥とコンビニの、その不思議な関係について。実はこの二つ、なぜだが似ている。夜の町で、あるいは湖で、どちらも白くてキラキラと輝くように目立つ存在なのだ。周りの環境と違和感があるほど、どこかしら浮いたような存在で、ちょっとけばけばしいとも言え、であるがゆえに、何やら無性に悲しくもある。そしてこのことは、なぜだかこの句集全体を貫く原理のようにも感じる。

 

岡野泰輔『やわらかな世界の肉』(ふらんす堂/2016年7月刊)

天井に翳のあかるき鳥の戀
シュルレアリスム展みなあたたかし手のしごと
踊りまづ回転である夜は特に
霧が出てゐるすべての鉄は喰はれつつ
内装がしばらく見えて昼の火事
滝の上に探偵が来て落ちにけり
家々よ網戸の底のテレビかな
背の高くとてもきれいな子が落第
イタリア名つけた金魚のすぐ死んで
電車から見えるナイターらしき空
盆棚の写真を褒める近所の人
セーターの脱いだかたちがすでに負け
逃げればいいのだ椿も棒も夜のもの

 俳句的な常識から考えれば奇妙なタイトルの句集だが、句集全体が俳句という文芸の真ん中にある引力のようなものから離れよう離れようとしている気配が見てとれる。その種の実験的試みは個人的には嫌いではないし、そしてこの句集はその意図をかなり達成できていると思う。この句集にはパロディやユーモアの感覚があり(探偵の句などは典型的だろうが)、その一方でどこか気味の悪いような感触も持っている。彼の句の多くは、このふたつの感覚・感触の境界のような場所に立つ。そのふたつの交錯は、彼の句の特徴というよりは、現在の私たちの現代文化自体が持つ特徴だと思うし、要は彼の俳句がそのような現代文化にうまく肉薄しているということの帰結なのだろう。

 

矢田鏃『石鏃抄』(霧工房/2016年7月刊)

しぶしぶと夜は光だす夏の草
うつとりとヤゴを話さそうではないか
悲哀物質ゆゑよこたはる薄氷
少年や愛で火達磨の晩夏よ
ベッドの下鉄パイプと配線 母よ
十一階から小さくて春の犬
石畳仄かに濡れる天動説
春の道の凹凸と葉々やはらかし

 この句集にある奇妙な感覚は面白いと感じる。いささか大仰な言葉遣いが目立つがそれも詩を形作るひとつの方法論だし、その呼びかけのスタイルは西洋的でもあるが、それも近代俳句のひとつの流れでもある。しかしそのような作風の中で、十一階の犬のような句が個人的には気になった。他の句の言葉遣いから比べると、いささか地味とも見える句だ。十一階から見下ろした風景と捉えるのが順当だろうが、それにしてはどこか語法が変だ。どこかしら空間自体が歪んでいるような妙な気分になる。とするとさらに気になってくるのが、十一という数字だ。なぜ十一なのか。どう考えてもそこに合理性はなく、ある意味では気まぐれというか、必然性のない選択なのだが、その必然性のなさこそがある種の必然的な喚起力を持つ、という、これまた不思議な回路がここに成立している。

 

池田澄子『思ってます』(ふらんす堂/2016年7月刊)

春寒の灯を消す思ってます思ってます
菜の花や空気ぼんやりその辺に
不幸そうに美女登場す夏芝居
少し古いけど風邪薬ですどうぞ
野暮用に突如霰が加わりぬ
寒月下船が出るぞと英霊たち
月へ浮き黒く丈夫な潜水艦
寒ければ各自我慢のうえ集合
遠い樹へ目のゆきつきし端居かな
今日のように日昇り東京大空襲

 もともと口語的な語り口を特徴とする作者だが、この句集はこれまでよりもさらに口語的・話し言葉的な傾向が強くなっている。そしてそれゆえに、なんとも幼子めいてもいる素朴な言葉遣いのようにも思え、少なくともどこか奇を衒うような言い回しはここには見当たらない。ある句はまるで、日常会話からそのまま無造作に切り取ったかのようにも見える(「寒ければ」の句などがそうだろう)。そう考えると、それは言葉の進化を退行する方向のようにも見えかねない。それはある意味で真実なのだが、それはしかし、言葉の根源に遡るという意図とも思える。というのも、ここでの素朴な言葉は、単に素朴なだけではなくて、どこかお伽噺めいた雰囲気を持っているからで、それはつまり古層に繋がる言葉の吹き溜まりのような場所でもある。言葉の古層と言うと、多くの人は古典などを参照することを思うだろうが、この句集で提示されているのは、それとは違う形での言葉の根源への遡行なのかも知れない。この句集の中を行き交う楽しげなお伽噺めいた足音の気配は、そんなことを思わせる。

 

鳴戸奈菜『文様』(角川書店/2016年7月刊)

花火あとの闇の深さを帰りけり
十一月こんなところに墓二つ
緑濃し湖面の小舟傾ぎおり
夏の風椅子のかたちに身を折りぬ
どの紐も恐し花の夜ひとりなら
玄関に船の絵掲げ夏に入る
真ん中に川の流れる春景色
なるはずのない蛇になり川泳ぐ

 ある種の濃さのようなものをこの句集には感じるのだけれど、しかしこの濃さとはいったい何だろう。それをアニミズムと言ってしまえばどこかステレオタイプな見方になるかも知れないが、それでも確かにこの濃さはある種の生命感と繋がっている。その濃さは、匂いや濃度や湿度を確かに持っている。それはいろんな意味で、どこかぞくぞくする存在なのだ。それはきわめて微細な感覚であると同時に圧倒的な感覚でもあり、捉えがたいが確かに存在するものだ。だからなぜだか、ぞくぞくする。人は美しいものや楽しいものに触れても、あるいは不気味なものや怖いものに触れても、どちらもぞくぞくすると思うが、まさにこの句集にはそのようなものがすべて一種になったような、ぞくぞくする感覚に溢れている。