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YuzoOno.blog

小野裕三の公式ブログです。

詠まれたことも読まれたこともない膨大な俳句に向き合う不安 ~人工知能がもたらす「俳句の死」について~ (『豈』59号に掲載)

俳句の質的な「死」と量的な「死」

 明治の時代において子規は、俳句形式に遠からず終わりが来ると考えていた。

 数学を修めたる今時の学者は云ふ。日本の和歌・俳句の如きは、一首の字音僅に二、三十に過ぎざれば、之を錯列法に由て算するも、その数に限りあるを知るべきなり。語を換へて之をいはば、和歌 (重に短歌をいふ) ・俳句は早晩その限りに達して、最早この上に一首の新しきものだに作り得べからざるに至るべしと。(正岡子規『獺祭書屋俳話』)

 子規の論は明確だ。物理的に、十七文字(あるいは定型外の文字数を多少含めても)における文字の順列組合せの可能性がすべて書き尽くされた時、もはや新しい俳句作品を生み出すことは不可能になり、俳句という形式は終焉する。

 俳句の死――それは実は、多くの俳人たちによって繰り返し議論されてきたことかも知れない。それは悲観的で絶望的な議論であるはずだが、この議論がかくも俳人たちに反復されてきたのは、俳人たちが「俳句の死」という観念自体について夢想することをどこかで愛してきたのだ、というふうにも思える。少なくとも、その観念には俳人たちをインスパイアする何かがあったのだろう。実のところ、あらゆるジャンル(特に芸術)でそのジャンルの「死」はしばしば語られてきたし、要は俳句もその例外ではない。

 だが、子規が予見した「死」は、そのように繰り返されてきた「死」とは異質であることに着目したい。実は多くの論者において、そのジャンルの「死」とはそのジャンルが活力や美や価値を失うことを意味してきた。例えばあるジャンルが愛好者も多くビジネス的にも活況だとしても、それに芸術的な価値が乏しければ、そのジャンルに既に「死」は訪れているとも見なせる。そして、多くの俳人たちが口にする「死」や「滅び」もまさにこのことであった。

 だが一方で子規の所論においては、美的な活力や価値の消滅のことなど前記に引用した文章においては一言も触れられていない。それは、単にもはや新しい俳句作品が生まれえないという、物理的・量的な意味での俳句の「死」のことを指していた。

 

人工知能が計測する「俳句の死」

 もっとも、子規が言う俳句の「死」は、彼の予見のように明治の時代のうちに来ることはなかったし、平成の今現在も来ていない。子規が予測した意味での俳句の「死」がこれまで訪れなかった要因はひとえに、人間(人類)が俳句を生産する速度が遅かったことにある。

 しかし、実はその状況も急速に変わりつつあるのかも知れない。背景にあるのは、人工知能などの出現だ。例えば近年の技術の進歩によって、人工知能がチェスや将棋や碁でも人間を打ち負かすようになった。作曲や絵画などの芸術的な分野でも、人工知能の利用が期待されている。同様に、自己学習によって発達した人工知能に対して俳人たちが作品の質において叶わないという日が来れば、それもまた「俳句の死」とも思える。

 だがしかし「俳句の死」は、もっと単純なものとして訪れるのかも知れない。その場合実は、それを実行するものは人工知能と呼ばれうるほど高度なものでなくても、既に世の中にいくつもあるような俳句自動生成プログラムで充分だ。このようなものが継続的に俳句を吐き出し、どこか公開の場所にそれを記録するようになれば、そしてそれがとてつもなく高速で行われるようになれば、たちまちのうちに俳句は(まさしく子規が言っている意味で)滅びる。それはきわめて物理的・量的な意味での死だ。そしてそこでは、何年何月何日何時何分にたった一句の「新しきものだに作り得べからざる」状態になり、つまり俳句は「死ぬ」という予告すら可能になるだろう。

 

人間が関知しない膨大な俳句を前にして

 かくして、そのような高速の自動生成マシンによって、子規が予言した意味で俳句が死ぬのだとしよう。しかし、そこには奇妙な違和感も残る。マシンは大量に句群を吐き出し、その文字データはおそらく公開されたネットワーク上のどこかに溜まっていくのだろう。だが、それがあまりにも高速かつ膨大であるがゆえに、その作品の過半は、人間の眼にほとんど触れることも鑑賞されることもないまま、ただ蓄積されていくことになるだろう。つまりそれらの俳句は、人間によって「詠まれた」ものでもないし、さらにそのほとんどは人間によって「読まれた」こともない。にもかかわらず、ある人が自分で俳句を作ってそれをネットワーク上で検索してみると、「既に(機械によって)作られた作品」として提示されてしまう。しかも、一句の例外もなく。その状況はどこか悪夢めいてもいる。

 ちなみに、J.L.ボルヘスに「バベルの図書館」という掌編があって、そこではあらゆる文字の組み合わせから作られたあらゆる文章を集めた書物が収蔵されているという図書館が描かれる。まさにそのようなデータベースが少なくとも俳句の世界においては遠からず出現しうる。すべての俳句はもはや作られてしまった(ただしその過半は人間の手によってではなく機械によって)という時代が、まもなく来る。したがって、このようなボルヘス的な悪夢を経験する、もっとも最初の文芸形式が俳句になるのだろう。私たちの世代は、新しい俳句を作り得た最後の世代となり、俳句の「死」の後を生きる最初の世代になる。

 そして考えてみれば、これまで多くの人がそのジャンルの「死」を語ってきたが、その「死」が訪れた後のことを具体的に論じた人はいなかったように思う。そして実は「死」の後の時代にも、いくつかの可能性がありうる。例えば、機械が作った膨大な言葉の組み合わせの中から、優れた組み合わせだけを「選」して提示するのが二十一世紀的な俳人像になるのかも知れない。あるいは、俳諧の精神は、言葉とはまったく違う表現形式を選択して二十一世紀を生き延びていくのかも知れない。

 いずれにせよ、私たちが知っている近代俳句は、俳句の「死」を迎えることで、その姿を大きく変えざるをえないだろう。そして興味深い符合だと思うのだけれど、子規こそはまさに俳句を量の側面から捉え、それを基盤に俳句を革新した俳人であった。「俳句分類」の仕事が典型的なのだが、子規は最初から、俳句という文芸を量的なデータベースとして捉えていたし、そして彼の予言どおり、俳句という文芸は量的なデータベースの膨張によって死ぬことになる。

 これは近代俳句の始まりと終わりに関する、なんとも奇妙な物語なのだ。