YuzoOno.blog

小野裕三の公式ブログです。

2017年1~3月の句集 『ただならぬぽ』『普陀洛記』『風あり』『遊絲』

島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂/2017年1月刊) 

翡翠の記録しんじつ詩のながさ

繭と糸食欲と逃げたい身体

友達でふさがっている祭かな

父が母へ投げる玉葱俺の上

実母義母金魚静まりかえる雨後

姉妹夏服ほそながい舟を押す

墓参の祖母箱抱き箱のなかに靴

グリコ横取り僕の横ふかい霧

去れよ闇ふたしかな鶴からけむり

白鳥定食いつまでも聲かがやくよ

偶然のたましいならぶクリスマス

降る雪やサラダの著しい進歩

手の中にくじら七頭ひとつが母

クリスマスイブ雨アルミニウムの牛

風船のうちがわに江戸どしゃぶりの

記号うつくし空港の通路を蝶

海女ひとり太る飾りのない鏡

根の研究あかるくて見えにくい蝶

いちご憲法いちごの幸せな国民

桃に水のこわさがつづく夜空かな

冷遇ガール多彩な蛇に名前あり

蟻が蟻越え銀行が痩せてゆく

死も選べるだがトランプを切る裸

蟹追う犬空間が混み合っている

虎が蠅みつめる念力でござる

噴水の奥見つめ奥だらけになる

西日暮里から稲妻見えている健康

墓を見ているとき茸山きえる

細君の黒目たいせつ渡り鳥

ラグビーやしずかに結ぶ子供たち

裏返る佐伯氏電気毛布の中

鶴国家ふしぎな鶴が攻めてくる

晴れやみごとな狐にふれてきし祝日

滝凍てて夜な夜な途方もない配膳

次のバスには次のひとびと十一月

杖は終日冬晴れをみちびいて来し

 田島さんの俳句について何か書こうと思ったのだけれど、彼の俳句はあまりに謎めきかつ魅力的すぎて、なかなか気の利いたことが書けない。とにかく素晴らしい作品を作る人であることは、一冊の句集からこれだけたくさんの秀句を引用できることが確かな証拠だ。しかも、彼の作品の魅力は今の俳句界の中でもきわめて独特であり、余人をもって替え難い、とはまさに彼のことを言うと思う。現代においてもっとも重要な俳人の一人と言っても、おそらく誰からも反対はされないだろう。

 そんな彼の作品を見ながら、時々思うことがある。それは、なぜ僕は今、彼のような方向性の作品を作っていないのだろう、ということだ。彼は、もともとどちらかと言えば、伝統俳句的な環境から俳句を出発したと思う。一方で僕は前衛的とされる環境から出発した。そして率直に白状するなら、初期の自分は田島さんの俳句の出来そこない版、みたいな句をけっこう量産していた。絶対俳句らしい俳句なんて作らないぞ、と思いつつ。そんな僕が、伝統的な要素の良さを認識したのは、田島さんの仲間である齊藤朝比古さんや岡田由季さんなどと出会ったからだ。そしてそんな僕の再発見を尻目に、田島さんの句はどんどん難解かつ抽象的になっていった。つまり、田島さんと僕の道とはたぶん、どこかで右と左が交差してしまったのだろう。

 もちろん、こんなことは単なる個人的な雑感レベルの話に過ぎない。だが、伝統的なものと前衛的なもの(という括り自体ももちろん大雑把だが)との間でのこのような不思議な交差は、突き詰めて深く考えると、それはそれで面白い評論のテーマになりそうな気もしている。それはそれとして、いずれにせよ、ここまで圧倒的なレベルにたどり着いた田島さんの俳句のこれからの行き着く先を、固唾を呑んで見守っている、というのが正直な今の気持ちだ。

 

大畑等『普陀洛記』(中山デザイン事務所/2017年2月刊)

あかいあかい四万六千日のバッハ

鯨より仏壇までを測りおり

枯はちす日に一合の飯を食い

紙芝居しずかに進む遠き火事

手袋のなか悪人の掌をひらく

人去れば滝妄想の舌出せり

夕暮れに鯨の肉買うおんなかな

かざぐるま十ほど作る怖ろしや

なめくじり頭くよくよくよと行く

後ろから読むな十二月八日の手記

くすぐりて出てくる南京豆が街々に

菜の花の後ろ明るい探偵屋

ぞろぞろ来るイギリス海岸の忘年会

全身を鷹に見られし眠られず

八月を踊り続けて捨人形

万歳の三度目からは蛸を食い

 大畑さんとは、何かのシンポジウムの際にご一緒したような記憶がある。寡黙な強い人、という印象があって、人間としての経験の豊かさのようなものも感じさせた。そんな彼の作る俳句は、「軽み」のようなものをむしろ強く持っている。一句をぎりぎりまで追い詰めていく、といった作風の俳人もいるが、彼はそうではなく、「軽み」の領域にむしろ意図的に留まるように、俳句と遊ぼうとする。そのことは彼に感じた「強さ」とはギャップがあるようにも思えるが、半面で、その「強さ」ゆえに「軽み」の場所の留まれているのかも知れないとも思う。いずれにせよ、彼はあまり俳句を追い詰めない場所で、俳句を客観的に見ようとする。その姿勢は彼の俳句評論にもおそらく繋がるのだろうが、そのような作品との距離ゆえに、彼の俳句世界には多彩な要素が流れ込む。俳句を窒息させず、生き返らせるためには、追い詰めるよりもその方が有効だ、と感じていたのかも知れない。

 

清水伶『星狩』(本阿弥書店/2017年3月刊)

幾万の蝶を翔たせて夏の空

壁深く来て春愁の一角獣

蛸壺のなかの真昼が焦げている

初夢に薔薇散らかしてちらかして

花こぶし空の骨格ゆるむかな

螢狩わたしの闇を見て帰る

讃美歌を閉じ冬蝶を漂わす

蝶眠るあれはカフカの夜の時間

河骨や水に個室のあるような

空港に日のゆきわたりクリスマス

春の夜の刃物充ちたる匂いして

萩こぼれ耳の奥まで加賀の国

烏瓜ひとつは仏ひとつは乱

夜の鏡磨けば冬の鹿通る

運命線も冬の林檎も途中なり

初夏のひそかなものに大鳥居

あかあかと二百十日の人体図

父の罠母の罠あり大枯野

 この作者の俳句の持つ独特の柔らかさはとにかく他に例を見ない。俳句というものはいかなる意味でも対象物という物質的なものに縛られるものである、というまったく当たり前のことを嘲笑うかのように、彼女の俳句は地表的な物質性から離れた柔らかさを持つ。時にそれが弱点のようにも思われるのだと思うし、だからそれは諸刃の剣なのかも知れない。物質的な根拠性に乏しい、という批判は確かに成り立ちうるかも知れない。しかし、言葉がその指し示すところの物質性から離れても、かくも美しく言葉として存在しうるというのは驚異以外の何物でもない。その才能は、他に例を見ない稀有なものだ。

 

------------------------------

 内野修『風あり』(角川書店/2016年1月刊)

あたたかく竹生やしたる古墳かな

音立てて運動会の夜は雨

ポケットに山々入れて十二月

蜘蛛死んで自分の糸にぶら下がる

沼浅く鴨一列に進みけり

大西瓜皆で平らげぐづぐづす

妻古く蜘蛛新しく新居かな

春の人くの字くくの字撥ねられる 

 

増田まさみ『遊絲』(霧工房/2017年2月刊)

父の艦沈めて戻るあめんぼう

人影のまず飛び込める天の川

名もなき死針金ハンガー吊るように

冬枯れへ鞦韆を蹴るいたずらに

鍵穴に鍵ふかくあり十三夜