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小野裕三の公式ブログです。

川崎益太郎『秋の蜂』 / 川崎千鶴子『恋のぶぎぶぎ』 (2017年8月刊)

不届きなトースト跳ねる早春賦

捨てられし菜の花そろり立ち上がる

地を選び地に選ばれる種袋

吊り橋の重量制限蝌蚪に足

夕焼けをこわさぬように卵割る

終点の更に伸びゆく花野かな

鯉跳ねて水より冷たき世界知る

影のない人と寄り添う日向ぼこ

あっ雪するりと落ちるボールペン

 

落椿ゴッホの耳が落ちている

重力の消えていく菜の花畑

なつかしむよう僕を離れぬ春の蠅

王様になりたくなって蜆とぶ

受験終え家しんしんと眠りけり

幾万の茶わんと靴の消えた夏

ずいずいずっころばし十の蟬穴

分校さびし本校さびし水母かな

ががんぼの送り迎えや夜の厠

変換はもう行き止まり濃紫陽花

どうして焼けたの八月のわたしは

盆の月背を丸くして子を迎え

こおろぎや母の小言の文殊

銀河見えず銀河のような子と絵本

顔を出す魔女の手そっと手袋に

 

 川崎さん夫妻はとても仲のよい夫婦で、今回の句集にもそのことが表れていて少し驚いた。というのも、同じタイミングで同じ出版社から同じような装丁スタイルで夫婦の句集を出す、という例は寡聞にして他に聞いたことがない。俳人同士の夫婦は何組も知っているが、こういう形は初めてで、しかも二冊の句集が同じ郵送で送られてきたから、本当にお二人は仲がいいんだなあ、とあらためて感心した。

 こうやってお二人の句を並べてみると(前半が益太郎さん、後半が千鶴子さん)、当然のようにそれぞれの生活のさまざまな側面が垣間見えるわけだが、あえて二人を比較するなら、益太郎さんのは彼を取り巻く世界を大局的に見ようとしているのに対し、千鶴子さんのはやや世界の流れのままに、と言うか、彼女に繋がる世界を体で感じようとしている印象がある。それゆえに、千鶴子さんの作品のほうがより、命や生き物というものに近い立場で詠まれていると言えるし、だから彼女が原爆を詠んだ(二人とも広島市在住)と思える句は僕には印象的だった。

 幾万の茶わんと靴の消えた夏

 どうして焼けたの八月のわたしは

 茶わんも靴もありふれた日常品だが、この並列はちょっとだけアンバランスだ。食卓に上るものと地を歩くもの。それでもそれらが並列にされることで、原爆の無差別な破壊力も想起させる。そしてこの二つとも、人間の体というか肌に密接な日用品でもある。そのような形で黙示的に肉体性が一句に包含されることで、かえって人間の肉体の生々しさのようなものも際立つ。

 それに対して、益太郎さんの句はより俯瞰的に世界を捉えようとする。だとすれば原爆のような社会的なテーマを捉えるのは、そういう句のほうが向いていそうだが、少なくとも僕としては千鶴子さんの原爆句のほうが印象的だった。

 すごく雑な一般論をすれば、男性の句のほうがより社会的に、女性の句のほうがより肉体的になる傾向は確かにある。だとすれば、男性の方が「社会性」を詠むのは適していそうなのに、必ずしもそうとは限らないのかも知れない。少なくとも千鶴子さんの句は、今の時代においてあらためて「社会性」を俳句に詠むことのヒントになるのかも知れない。