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小野裕三の公式ブログです。

天上と地上に引き裂かれて (『一粒』2017年9月号に掲載)

※本稿は、堀葦男氏の書籍『俳句20章』を読むというテーマの元に書かれたものです。

 

 俳句を作るという行為について、昔から僕自身が思っていることがあって、そのことがこの書物の一部でさらりと触れられていて、興味深く感じた。

 われわれ俳句にたずさわるものは、<中略>感知形象の本来の世界を観得し、また感得することにつとめ、しかもさらにこれを本来考想の衣であることばによって表現するという、二重のむつかしい課題に、絶えず直面していることに気付かれたと思います。

 ここで着目したのは「感得」という言葉だ。「感得」という言葉は、日本の古いお寺などの由来を説明した文で見かけることが多い。一例として、金峯山寺のサイトから引用してみる。

 金峯山寺にお祀りされる御本尊は、金剛蔵王大権現であります。今から1300有余年前、金峯山山上ヶ岳役行者が一千日の修行に入り、感得された権現仏であります。

 優れた行者が、ある場所に何か神秘的な力があると感じ、そしてそれは何かの神仏であると特定する。その上でそこに像などを祀り、祠を建てる。神仏が自ずからそこに現れてくるのではなく、ある種の媒介者にまるで発見されるがごとくに、神仏は「感得」される。逆に言うと、その媒介者がいない限り、その神仏ははっきりとした姿で人々の前には現れない。このような秘儀めいたシステムが、「感得」と呼ばれてきた。

 そして俳句という仕組みは、この「感得」という日本古来の宗教的システムの、ひとつの小さなミニチュアなのではないか、という気がずっとしてきた。俳人という媒介者が、ある力のようなものをある場所や状況において感じ、そしてそれを俳句の言葉として特定する形で人々の前に現す。もちろん役行者ほど大それたものではないのだけれども、それでも小さな無数の「感得」が俳句という文芸を生み出し続けてきた。そのように思ってきたから、この本で「感得」という言葉を見つけたのには、強く納得した。

 その上で注目したいのは、この引用した文にさらに付加的な二点の指摘があることだ。

 一点目は、「感得」という言葉に加えて、「観得」という言葉を使っていること。通常の辞書には出てこない言葉なので、本書の文脈の必要に応じた造語的な言葉と見なしてもいいだろう。「観る」ことを重視する姿勢は、やはり別の箇所でも他の俳人の文を引用する形で主張されている。

 「わが国の文学の中で、俳句だけが『観ること』によって貫かれた唯一の文学である。俳句は『観ること』によって実存にせまる方法を、十七音律によって様式化したものなのであって、それ以前の何ものでもない。」(村野四郎氏)

 さらに二点目は、俳句と言葉の関係自体が根本的に孕む、「むつかしい課題」に言及していること。このことは、別の箇所で次のようにも説明されている。

 「かたち」で書くという方法は、もともと「こと」を伝える「ことば」を使って書かれた「かたち」で「こころ」(詩)を伝えるという、一見矛盾した作業だといえましょう。

 要するに、俳句はもともと「ことば」で伝えるには向いていず、しかしながら「ことば」を使って作るしかないという、きわめて矛盾した存在である、ということだ。

 そして、ここで述べられている「観る」と「ことば」という二つの問題とは、それぞれ俳句のインプットとアウトプットに関する問題である、と捉えることができる。だがだとすれば、「感得」といういかにも秘儀的な言葉に付随して、なぜこのようなインプットとアウトプットの問題が提起されたのか。実はこれもまた、俳句の本質に深く関連する指摘なのだと感じる。

 それはこういうことだ。つまり、俳句とは「感得」という言葉に表わされるとおり、どこか天上のものめいたところがある。宇宙的、と言い換えてもいいかも知れないが、どこか地上のものには収まりきれない側面を持っている。しかしその一方で、俳句は間違いなく地上的な存在であり、「観る」ことを経ずしてそのインプットはありえないし、「ことば」を経ずしてそのアウトプットもありえない。にもかかわらず、その「ことば」は実は決して俳句に絶対的に適した手段ではないし、同様に、「観る」ことも実は決して俳句に適した手段ではないのかも知れない(「感得」には必ずしも「観る」ことは要らないし、「観る」ことが正しい手段とも限らない)。むしろ、俳句が「感得」されるものとして天上に近い資質を持つとしたら、「観る」や「ことば」などのいかにも地上的な存在はその足かせにすらなりうる。そこには、絶対不可欠な手段が同時にその足かせでもあるという、俳句にとっての究極的な矛盾が存在する。

 「感得」という、どこか俳句の本質を突く天上的な視点を導入したとたんに、それに必然的に付随するように「観る」や「ことば」という地上的な視点がまとわりつく。そのことは、俳句が天上のものと地上のものに引き裂かれる大きな矛盾を孕んだ存在であることをまさに示唆しているようで、なんとも興味深い。