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小野裕三の公式ブログです。

刻まれたテクノロジーと声の復権 ~21世紀の俳句とは~ (『豈』60号に掲載)

機械に語りかける詩人

 先日、自身で詩を書くというアメリカ人の黒人男性と話す機会があり、話題は詩の未来のことに及んだ。僕の主張は、デジタル化が多くの文化現象を覆っており、文学や詩も例外ではなく、その結果として俳句を含む文芸は変質を遂げる、というものだった。キーボードやタッチパネルでの文字入力は既に日常化しており、それが私たちの使う言葉自体に影響しないはずはないからだ。だが彼はそれだけでなくさらに、こんな可能性も指摘した。というのも、彼は自分の詩を作る時に、「話している」のだ、と。つまり、彼はスマートフォンに向かって自分の詩想を話しかけ、それは音声認識のソフトウェアによって自動的に文字の形となる。それは単に便利というだけでなく、まったく新しい詩作の環境を作り出す。例えば横たわって瞑想しながら詩を作る、あるいは真っ暗な部屋の中で詩を作る、など、これまでに不可能だった詩の「作り方」が可能になる。

 そうだとするならば、テクノロジーが二十一世紀の新しい詩の可能性を導く、と率直に礼賛したくもなる。だが、話はそれほど単純でもないだろう。というのも、テクノロジーは未来のみに存在するものではない。テクノロジーはいつの時代にも存在してきたし(文字や印刷術も当時の最新のテクノロジーなのだ)、そして私たちの今の文化も既にそのような既存のテクノロジーの影響を大きく受けてきた。つまり文化とテクノロジーの関係は多面的で錯綜しており、そのことを踏まえて、来たるべき時代の新しい文化のことを考える必要がある。

 

近代の音楽文化を形作ってきた技術的環境

 そのことを考える例として、音楽を挙げてみよう。特に録音技術が生み出されて以降の近代の音楽の歴史は、テクノロジーに強く規定されてきた。蓄音機が登場した時、その録音時間は最大四分半程度だったため、当時の演奏家は演奏時間を縮めてそれに合わせた。その結果として今でも、ポップ音楽の一曲の平均の長さは四分半だとの指摘がある。蓄音機という録音技術の制約が、一曲の歌の長さであり、さらには一曲の「歌」という概念自体を規定したとも言える。テクノロジーの制約から生まれた形式が、制約がなくなってもまるで本質的なことのように維持されている。

 時代が進むと、LPというレコードの形態が登場する。ここで成立した「アルバム」という概念は、二十世紀後半の音楽シーンを強く規定する。十曲程度の曲の集合体というあり方は、結果として、ミュージシャンたちの「世界観」や「哲学」のようなものをそこで不可避的に提示することになったからだ。だからこそ聴き手たちも、曲だけでなく「アルバム」について熱く語ってきた。

 このように、近代の音楽の歴史は、録音のテクノロジーの進化に寄り添うように、形作られてきた。現在のテクノロジーの条件からは、一曲が四分前後である必然性はないし、それが十曲前後集まってアルバムを構成する必然性もない。だが、それらの制度は音楽という存在の本質と結びつくかのように、(少なくとも今のところは)強固に残っている。

 

俳句に刻みこまれたテクノロジー

 このような、文化とテクノロジーの強い結びつきは他の領域でも見ることができる。俳句(もしくはその祖先としての詩歌)は、周知のように七五調の韻律に支配されてきた。それは、韻律を用いることで記憶されやすく伝えられやすくなるという、いわば〝口伝のテクノロジー〟によって規定されたものだったのだろう。しかし、新しく登場した文字や印刷という次段階の伝達のテクノロジーによってその必然性は薄れる。にもかかわらず、七五調の韻律がまるで俳句の本質と結びつくかのように残存しているのは、蓄音機が定めたフレームが今に至るまで「曲」という概念を規定しているのと、どこか似ている。

 一方で、印刷というテクノロジーは、「本」という形式を生み出し、それは音楽における「アルバム」にも似て、ひとつの世界観を提示するという意味で、俳句という文化のあり方を規定してきた(句集や結社誌)。音楽の事例と同様に、俳句という文化にはいくつものテクノロジーの歴史の波が年輪のように刻まれている。

 そして今や、現在の急速なデジタル化によって、旧世代での最新テクノロジーであった「紙」の文化も全般的に凋落しつつある。例えば、これまではあらゆる俳句作品にとっての最終ゴールは「紙」として印刷されることだったろう。結社誌や同人誌に掲載され、さらには句集にまとめられる。印刷というテクノロジーの登場以降、そのテクノロジーの形を纏うのが、俳句(もしくは言葉)にとっての至福のゴールであるかのように、人々は思ってきた。

 だが、そこには何かの合理性があるのか、それともある種の先入観による惰性にすぎないのか。発表する場であれば、ネットで充分と言える。しかもネットなら簡単に多くの人がアクセスできるし、検索も容易だ。それに比べると、紙の句集はなんとも不自由で手間のかかる劣ったものとも見える。だとするなら、将来においては最初から「紙」でなく「ネット」をゴールとする書き手が登場してくる可能性もありそうだ。